インス大妃の史実と孫の燕山君

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インス大妃の史実と孫の燕山君 韓国ドラマの話題

このページではインス大妃の史実について解説します。

インス大妃の夫は桃源君(トウォングン)。

第7代の王・世祖(セジョ)(即位前の「首陽大君(スヤンテグン)」の呼び名のほうが有名)の長男です。

参考記事:首陽大君(スヤンテグン)はどんな王様?経歴と死因などの解説

桃源君は後に世子になると「懿敬世子(ウィギョンセジャ)」と呼ばれます。

桃源君は聡明で将来を期待されましたが、19歳の若さで亡くなります。

インス大妃は夫である桃源君が即位前に亡くなるので、本来は大妃の地位にはつけませんでした。

大妃とは「先王の妻」という地位だからです。

しかし、桃源君が追尊(死後に王位が与えられること)されることで大妃の地位を得ます。

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インス大妃の半生

インス大妃は外交官の家系に生まれ、明(当時の中国)の皇帝の側室になるよう打診を受けます。

皇帝の側室の候補になるくらいなのでかなりの家柄だったのでしょう。

しかし、本人が拒否したことにより、この話はなくなります。

若き日のインス大妃は桃源君に王としての素質を感じたため、桃源君の妻になることを希望し、それが叶って桃源君(トウォングン)と結婚します。

ハナコンブくん
ハナコンブくん

当時では女性が結婚相手を自分で決めるなんて考えられなかったはずだよ。先進的な人だったんだね。

桃源君(トウォングン)とインス大妃の間には二人の男児が生まれます。

このうちの次男が後に王になります。

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インス大妃が大妃になったいきさつ

インス大妃の義父である第7代王・世祖(セジョ)には二人の男児がいました。

長男はインス大妃の夫の桃源君。

桃源君は聡明で将来を期待されましたが、19歳の若さで亡くなります。

次男は桃源君と12歳離れていて病弱でしたが、この次男が世祖の次の王として即位します。

この次男が第8代王・睿宗(イェジョン)です。

第8代王・睿宗(イェジョン)は18歳で即位しますが病弱だったため、父である世祖が生前に院相政(ウォンサンジェ)を作ります。

これは王が幼い場合は重臣が支えとなる制度です。

また、垂廉聴政(すいれんちょうせい)の制度もありました。

垂廉聴政とは王が幼い場合は母や祖母が政治をする、というもの。

要するに睿宗は全く政治の実権を持たない王でした。

睿宗はこのような状態でわずか14か月ほどの在位で1469年12月31日に亡くなりました。

享年は19歳。

第6代王の端宗(タンジョン)とともに10代で亡くなった数少ない王です。

睿宗(イェジョン)の次の王ですが、あまりに在位が短いために人選に苦労します。

そこで白羽の矢がたったのが桃源君(トウォングン)の次男でした。

桃源君の長男は病気だったので、次男が即位します。

これが、第9代王・成宗(ソンジョン)です。

成宗は即位して数年後に、父である桃源君を追尊(死後に王位が与えられること)します。

桃源君は追尊によって「徳宗」となり、これによってインス大妃は「亡き王の妻:大妃」の地位を手に入れます。

インス大妃は息子の成宗(ソンジョン)をサポートし、政治的手腕を発揮しました。

成宗は母の支えもあり、現在の憲法にあたる法典を作るなど安定した政治を行い25年にも及ぶ長期政権を運営しました。

また、この時期は「文化の黄金期」とも呼ばれるほど文化が栄えた時期でもあります。

これには母であるインス大妃も貢献します。

インス大妃は学識が深く、仏典のハングル翻訳をしたり、婦女子の教育指南書「内訓」を記したりなど学術の分野でも大きな功績を残しました。

ハナコンブくん
ハナコンブくん

当時の女性としては珍しく字の読み書きもできたんだ。ドラマ「インス大妃」では義母に字を教えるシーンが描かれているよ。

成宗は子沢山で28人も子供がいました。

この中の一人が次の王、「稀代の暴君」とも呼ばれる燕山君(ヨンサングン)です。

つまり、燕山君はインス大妃の孫なんです。

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インス大妃の最期と燕山君の粛清

インス大妃は成宗の2番目の王妃であった尹氏(ユンシ)と対立します。

尹氏は家柄は良くはなかったのですが、とても美しかったために成宗の寵愛を受けていたのです。

こうして、成宗と尹氏との間に誕生してのが燕山君でした。

ハナコンブくん
ハナコンブくん

ちなみに、尹氏は揀択(カンテク)によってえらばれた王妃だよ。王妃選びは家柄重視の紹介で決まることが多かったけど、揀択(カンテク)とは一般公募面接みたいな制度だった。揀択(カンテク)をテーマにした韓国ドラマもあるよ。

尹氏は気性が荒く、嫉妬深い性格だったと言われています。

また、その気性の荒さから成宗の顔を爪でひっかくという事件を起こします。

この前代未聞の事件がきっかけで尹氏は降格されたのち、賜死(毒薬を飲まされる)します。

正妃の座についてから、わずか3年でのことでした。

このため、燕山君は実母の顔も知らずに育ちます。

燕山君の実母は「廃妃尹氏(ペビユンシ)」と呼ばれますが、こうしたいきさつによるものです。

燕山君(ヨンサングン)は王となってから二度にわたって大粛清を行い、宮廷を文字通り血の海にしています。

一度目は1498年の戌午士禍(ムオサファ)です。

これは政治的に対立していた派閥の者たちを粛正したものです。

二度目の大粛清は1504年の甲子士禍(カプチャサファ)です。

こちらは実母の死に関わったとされる者たちを次々に粛清していったものです。

インス大妃はこの甲子士禍の渦中で燕山君によって粛清されました。

享年68歳と当時の女性としては長生きでしたが、最後は実の孫の手によって生涯を閉じます。

詳しく知りたい方は時代劇の「インス大妃」を見てください。

若き日のインス大妃をアイドルグループ・T-ARAのハム・ウンジョンが演じるなど話題作でおすすめです。

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インス大妃の史実まとめ

このページではインス大妃の史実についてまとめました。

  • 夫が即位前に亡くなっているので本来は大妃の地位は得られなかった
  • 追尊により夫が王となったので大妃の地位を手に入れた
  • 聡明で博学で、文化の発展に寄与した
  • 息子である成宗の2番目の王妃であった尹氏(ユンシ)と対立する
  • 尹氏との対立がきっかけで、孫の燕山君によって粛清されて生涯を閉じる

以上、インス大妃の史実でした。

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