ドラマ「イ・サン」に出てくるソンヨンの子供「ヒャン」と呼ばれていた文考世子(ムニョセジャ)について、驚きの史実をお知らせします。
まぎれもなくソンヨンが産んだ子ですが、史実によると母は考懿(ヒョイ)王妃ということになっているのです。
これはなぜなのか気になりませんか?
続きをどうぞ。
文考世子は誰の息子だったか
ドラマ「イ・サン」の劇中では幼くして亡くなった文考世子(ムニョセジャ)、「ヒャン」とも呼ばれていましたがこの子について少し触れてみましょう。
朝鮮王室の系譜によると驚いたことに文考世子(ムニョセジャ)の母親はソンヨンではなく考懿(ヒョイ)王妃ということになっているのです。
それはなぜでしょうか?
それは朝鮮王室では王妃が息子を産まなかった場合、王室の系譜を守るために側室が生んだ王位後継者を王妃の養子としたからです。
つまり、生母はソンヨンだが戸籍上は考懿王妃の子供ということです。
生母と言えど格式通りのコミュニケーション
王妃の養子となった文考世子に対して生母であるソンヨンは気軽に話しかけることさえ許されませんでした。
二人の身分は王位後継者である世子とあくまで側室に過ぎないソンヨンという差があるものでした。
また、文考世子が生母であってもソンヨンを「オモニ:お母さん」と呼ぶことはできても「オンマママ:お母様」と呼ぶことはできませんでした。
この王室の正式呼称は考懿王妃に向かってのみ使われたのです。
実際の子育ては乳母
では文考世子を実際に育てたのは一体誰でしょうか。
それはソンヨンでも王妃でもないのです。
朝鮮王室では世子は乳飲み子の頃から母ではなく乳母に養育されました。
生母は生後21日間だけ赤ん坊に乳を飲ませることができ、それ以降は乳母に養育を任せなければならなかったのです。
王室では母子といえども厳格な制度に従わなければならなかったのだ
親子と言えども格式に持っとった会話をするだけで思い通りに愛情表現をすることさえ許されなかったわけなので、母子ともに寂しかったでしょうね。
そのため世子は生母から受けるはずの愛情を乳母に求めるしかなかったわけです。
乳母は世子の幼少期だけでなく成人になってからも側に仕えて身の回りの世話をしました。
世子が即位した後も沐浴の世話係を務めるなど乳母と世子の関係は生母よりもはるかに近くて親密だったそうですよ。
コメント