李成桂は朝鮮を建国した人。子孫や家系図も紹介

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朝鮮を建国した李成桂について解説します。

  • 李成桂が朝鮮を建国したのはいつなのか。
  • 他にも李成桂は何をした人なのか?
  • 韓流アイドルにも子孫がいるらしい。
  • 倭寇を撃退したのは李成桂なの?

こういった疑問にもお答えします。

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李成桂の名前、読み方と改名

まず、李成桂の読み方はイ・ソンゲです。

「りけいせい」とは漢字を日本語で読んだ呼び名ですが、韓国語ではイ・ソンゲです。

ハングル表記では이성계です。

李成桂は即位した後に、旦(タン)と改名しています。

王の本名に関しては朝鮮王朝歴代王系図と聖君ランキングでも解説しています。

そして、朝鮮初代国王としてのおくり名は太祖(テジョ)となります。

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李成桂は何をした人物なのか(朝鮮建国と威化島回軍)

李成桂は何をした人物なのかを解説します。

李成桂は朝鮮を建国した人物です。

それまで朝鮮半島の統一国家だった高麗(こうらい)を滅ぼし、朝鮮を建国しました。

ここで、朝鮮建国のきっかけとなった威化島回軍について解説します。

李成桂はもともとは高麗の将軍でした。

時は1388年。

この当時の中国大陸には元(ゲン)という国がありましたが、新たに明(ミン)という国が勢力を伸ばしている時期でした。

ハナコンブくん
ハナコンブくん

高麗の王様は元との関係を重視していたけど、李成桂は先見性もあって明につくべきだと主張するよ

高麗は明との戦いを決意して李成桂に軍を任せて出陣しますが、李成桂は軍を途中で引き返して高麗の王様を倒してしまう。

これを李成桂が引き返した場所にちなんで「威化島回軍」といいます。

この威化島回軍がおきたのが1388年でした。

そして1392年に高麗王として即位、1393年に国号を「朝鮮」と改めて初代国王となります。

ハナコンブくん
ハナコンブくん

朝鮮は建国当初から明を宗主国とし、李成桂を朝鮮国王としたのは明だったんだ

なので、朝鮮建国の年を1392年とする説もありますが、正式に朝鮮が建国したのは1393年です。

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李成桂の家系図と子供たち

李成桂の家系図と子供たちについて解説します。

まずは家系図を見てください。

※太祖(テジョ)が李成桂のことです

李成桂には他にもたくさんの子供がいましたが、第一夫人の神懿王后韓氏が生んだ男子5人が後継者候補となっていました。

  1. 李芳雨(イ・バンウ)
  2. 李芳果(イ・バンガ)後の2代王定宗
  3. 李芳毅(イ・バンウィ)
  4. 李芳幹(イ・バンガン)
  5. 李芳遠(イ・バンウォン)後の3代王太宗

しかし、第二夫人である神徳王后康氏の次男、李芳碩(イ・バンソク)が異母兄たちを差し置いて世子とされたことをきっかけに後継者争いが激化、さらに長男の李芳雨(イ・バンウ)が早くに亡くなったことで、第一次王子の乱・第二次王子の乱が勃発してしまいます。

ハナコンブくん
ハナコンブくん

ちなみに、李芳碩(イ・バンソク)が朝鮮王朝での初めての世子ということになるよ

第一次王子の乱

第一次王子の乱は李成桂の第二夫人の子で、第8王子の李芳碩(イ・バンソク)が異母兄たちを差し置いて世子とされたことをきっかけに起きた後継者争い。

第一夫人の神懿王后韓氏は朝鮮建国の前年に亡くなっていたので、第二夫人・神徳王后康氏が李成桂の寵愛を受けていました。

第8王子の李芳碩(イ・バンソク)が世子になれたのも、これが影響しています。

李芳遠(イ・バンウォン)がこの状況を打破すべく、李芳碩(イ・バンソク)を殺害してしまいます。

これが第一次王子の乱です。

李芳碩(イ・バンソク)は享年16歳でした。

この事件の後、李成桂は子供に王位を譲ることを決意。

長男の李芳雨(イ・バンウ)はすでに亡くなっていたので、次男の李芳果(イ・バンガ)が2代王定宗(チョンジョン)として即位します。

第二次王子の乱

次男の李芳果(イ・バンガ)が2代王定宗(チョンジョン)として即位しますが、これは5男の李芳遠(イ・バンウォン)の意向が強かったです。

2代王定宗(チョンジョン)は子だくさんでしたが、嫡男がいなかったため弟の李芳遠(イ・バンウォン)にとっては都合がよかったのです。

定宗(チョンジョン)の在位中、実権を握っていたのもバンウォンでした。

このため、「バンウォンを倒せば王座を奪える」と反乱を起こしたのが4男の李芳幹(イ・バンガン)でした。

ですが四男の李芳幹(イ・バンガン)はあっさりと返り討ちにされ、これを見ていた定宗(チョンジョン)は自分も身の危険を感じ、バンウォンを世弟(セジェ)に任命した後、すぐに王の座を譲り渡します。

第二代王の定宗(チョンジョン)は在位期間わずか2年ほどでした。

これが「第二次王子の乱」です。

ハナコンブくん
ハナコンブくん

こうしてバンウォンは朝鮮の3代王太宗(テジョン)として即位するよ

李芳幹(イ・バンガン)は「生涯流刑」とされ、流刑地を転々とする晩年を過ごします。

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セブチのディノの本名は?実は李成桂の子孫!

朝鮮王朝の初代王である李成桂の子孫が今もいて、K-POPアイドルをやっているんです。

それがSEVENTEEN(セブチ)のディノ。

セブチのディノは李成桂の子孫としてファンの間では有名ですね。

ディノの本名は이찬(イ・チャン)ですが、系図では이중찬(イ・ジュンチャン)と記載されています。

ディノの本名は이찬(イ・チャン)と이중찬(イ・ジュンチャン)どちらなんでしょうか?

実はこの중(ジュン)が王族の子孫である証なんです。

李成桂の子孫の家系では、その証として名前に중(ジュン)を入れる決まりがあります。

ですので家系図ではディノは이찬(イ・チャン)ではなく이중찬(イ・ジュンチャン)で記載されています。

ハナコンブくん
ハナコンブくん

朝鮮時代には養子をとったりすることも普通だったので、ディノの家系が李成桂の直系かどうかは不明だよ。でも名前に중(ジュン)を付けているってことは子孫であることに間違いない。

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李成桂は景福宮を作った人

景福宮(キョンボックン)は李成桂が作りました。

1395年から李氏朝鮮の王宮として約200年間使用されました。

景福宮は2度の大火によって焼かれています。

一度目は1553年。

二度目は1592年の豊臣秀吉率いる文禄の役において、国王の宣祖(ソンジョ)が漢城(ソウル)から逃亡して治安が乱れると、日本軍の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火が行われました。

ハナコンブくん
ハナコンブくん

日本人としては景福宮に火をつけたのが日本軍じゃなくてホッとしたよ

関連リンク:https://japanese.visitkorea.or.kr/svc/whereToGo/locIntrdn/locIntrdnList.do?vcontsId=111446&menuSn=351

ソウル市内にある観光名所として人気ですね。

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李成桂は文禄の役・慶長の役を撃退した李舜臣(イ・スンシン)とは別人

李成桂(イ・ソンゲ)は文禄の役・慶長の役を撃退した李舜臣(イ・スンシン)とは別人です。

たびたび混同されているようですが。

李成桂が朝鮮を建国したのが1393年、李舜臣(イ・スンシン)は1545年~1598年。

生きた時代が全く違います。

李舜臣(イ・スンシン)は豊臣秀吉による文禄の役・慶長の役を撃退した救国の英雄で、ソウル市内に銅像もあります。

この功績によって「忠武公」というおくり名もつけられています。

李舜臣(イ・スンシン)

李成桂(イ・ソンゲ)も倭寇を撃退していますが、朝鮮建国前で高麗の武将として戦ったものです。

なので、李成桂(イ・ソンゲ)と李舜臣(イ・スンシン)は別人です。

覚えておきましょう。

他の朝鮮王が見たい方は朝鮮王朝歴代王系図と聖君ランキングを読んで下さい。

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