朝鮮王朝第22代王・正祖(チョンジョ)イ・サン。
その生涯は、天才と悲劇、そして愛で彩られた波乱に満ちたものでした。
このページでは赤い袖先は実話なのか?史実とドラマの描かれ方の違いなどを紹介します。
赤い袖先はイサンとドギムの純愛がメイン
イ・サンの両親は、悲劇的な最期を遂げた思悼世子(サドセジャ)と恵嬪ホン氏です。
恵嬪ホン氏は、イ・サンを筆頭に数人の子を産みました。
イ・サンは幼少の頃からその才能を発揮し、恵嬪ホン氏は「満1歳で文字を覚えた」と語ったほどでした。
一方、ドラマ『赤い袖先』のヒロイン、ソン・ドギムは、恵嬪ホン氏の実家にゆかりのある宮女として宮廷入りします。
イ・サンとソン・ドギムは、それぞれ異なる境遇で成長していきます。
イ・サンは王位継承を意識しながら、祖父である英祖の監視下で孤独な日々を送ります。
一方、ソン・ドギムは宮女として厳しい訓練を受けながら、宮廷の陰謀渦巻く世界を生き抜いていきます。
ドラマ『赤い袖先』では、イ・サンとソン・ドギムの出会いや、二人が惹かれ合う様子が美しく描かれています。
しかし、歴史上のイ・サンには、孝懿王后という正室がいました。
ドラマでは描かれない、歴史に裏打ちされた二人の関係もまた、興味深いものです。
ドラマは、イ・サンが王位につくまでの出来事を中心に展開します。
宮廷内の権力闘争、そしてイ・サンとソン・ドギムの切ない恋物語。
歴史とフィクションが見事に融合した作品として、多くの人々を魅了しています。
史実のイサンの人物像
イ・サンこと正祖(チョンジョ)は朝鮮王朝の第22代の王で、
朝鮮王朝の後期を代表する王、最後の聖君とも呼ばれています。
なぜイ・サンが最後なのかというとこれ以降は国が一気に乱れるからなんですね。
国際情勢も絡んできます。
ちなみに、
「イ・サン」とは人としての本名です。
本名で呼ばれる王はイ・サンだけですが、
これは民に寄り添った政治をしたため、親しみを込めて呼んでいるのです。
本当に尊敬された王だったわけです。
関連記事:「世孫(セソン)」とは?イ・サンが幼いころに呼ばれていた理由
イ・サンは即位式で
「私はサド世子の息子である」と宣言しています。
これは敵対勢力でもあり、父の敵でもある
老論派に対する宣戦布告でもありました。
関連記事:思悼世子(サドセジャ)とはどんな人物?なぜ米びつに入れられたのか
イ・サンは身分を問わずに優秀な人材を登用しました。
このようなシーンはドラマの「イサン」の中でも語られていますね。
赤い袖先はドギムとの純愛がメインテーマなので歴史的なエピソードは比較的少ない印象ですが。
この時期は「朝鮮王朝のルネッサンス」と言われるほど、
文化が花開いた時期でもあります。
これもイ・サンの治世のおかげです。
イ・サンを悩ませたものの中に世継ぎ問題があります。
正妃に子供ができませんでした。
そのため側室(宜嬪成氏(ウィビンソンシ))の子を、正妃の養子とします。
この養子が次の王となるのですが・・・
イ・サンの次の王をめぐっては
大変な後継者争いが起きます。
なにせ、正妃に子供がいないのですから。
誰が次の王になってもおかしくない状態です。
イ・サンは1800年に崩御しますが、
同じ年に世子が決まり、その年のうちに即位します。
本当にギリギリのタイミングだったんです。
このように、史実のイサンは激動の時代を生きたんですね。
ドギムのモデルとなった実在人物は宜嬪成氏(ウィビンソンシ)
ドギムのモデルとなった実在人物は朝鮮王朝第22代王、正祖の側室である宜嬪成氏(ウィビンソンシ)です。
もう一つの正祖の時代を描いたドラマ「イ・サン」ではソンヨンとして登場します。
元々は、恵慶宮洪氏(ヘギョングンホンシ)の召使をしていました。
ヘギョングンは正祖(チョンジョ:イサンのこと)の母親だよ
宜嬪成氏は正祖の最初の息子、文孝世子の母親でした。
彼女は1786年に3人目の子供を身ごもっている状態で亡くなりました。
肝硬変という記録が残っています。
彼女の死は正祖にとって大きな悲劇であり、彼は深く悲しみました。
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