首陽大君(スヤンテグン)はどんな王様?経歴と死因などの解説

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このページでは首陽大君(スヤンテグン):後の7代王・世祖について、経歴や死因などを解説します。

兄弟で王位を争ったことから多くの韓国時代劇に登場するスヤンテグンの史実をお知らせします。

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首陽大君(スヤンテグン)は甥から王座を奪い7代王・世祖に

朝鮮王朝の首陽大君(スヤンテグン)は、4代王・世宗(セジョン)の次男で、本来は王になる資格を持ちませんでした。

父である4代王・世宗(セジョン)の後は、長男の文宗(ムンジョン)が継ぎました。

しかし、文宗が在位わずか2年ほどで病に倒れ、その息子の端宗(タンジョン)が11歳という幼さで即位したことからスヤンテグンは王座を奪うことを決意します。

スヤンテグンが王になるための障壁となったのは、6代王・端宗(タンジョン)の補佐の金宗瑞(キム・ジョンソ)と皇甫仁(ファンボ・イン)の二人でした。

2人は国土防衛の英雄と総理大臣で、首陽大君(スヤンテグン)の野心に気が付いた5代王・文宗(ムンジョン)が生前、6代王・端宗(タンジョン)の補佐に付けた人物ですが、王が幼いことに付け込んで政治の実権を握っていたのです。

2人に対し首陽大君(スヤンテグン)は、幼い王の権力を欲しいままにすることを許さないと考えました。

野心家の首陽大君(スヤンテグン)が甥から王座を奪って7代王・世祖となるクーデター、「癸酉靖難(ケユジョンナン)」はこうして始まったのです。

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癸酉靖難(ケユジョンナン)は朝鮮史に残るクーデター

癸酉靖難(ケユジョンナン)は、李氏朝鮮6代王・端宗(タンジョン)が即位して1年後の1453年10月に発生したクーデター事件です。

幼い国王の叔父にあたる首陽大君(スヤンテグン)が首謀者です。

首陽大君(スヤンテグン)が金宗瑞(キム・ジョンソ)と皇甫仁(ファンボ・イン)を殺害、政治の実権を奪いました。

その後、1455年にスヤンテグンは世祖(セジョ)として即位します。

このクーデターは、4代王・世宗(セジョン)の後継者の5代王・文宗(ムンジョン)が、即位して2年ほどで病死したのが発端です。

首陽大君(スヤンテグン)の甥の端宗(タンジョン)は、11歳にして6代王に即位しています。

若かった端宗(タンジョン)は後宮の支援を得られなかったため、文宗(ムンジョン)が学者や官僚などを補佐に付けました。

中心的な補佐役で首陽大君(スヤンテグン)の政敵だった金宗瑞(キム・ジョンソ)と皇甫仁(ファンボ・イン)は、クーデターにより惨殺という形で殺害されました

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スヤンテグンの死因は皮膚病か

甥から王座を奪って王位に就いた首陽大君(スヤンテグン)は、50歳を過ぎたあたりから病気がちになりました。

床に臥すことが多くなった晩年は、それまでの行いを後悔していたそうです。

そんな首陽大君(スヤンテグン)は、息子の海陽大君(ヘヤンデグン)に譲位した翌日、1468年に亡くなりました。

海陽大君(ヘヤンデグン)は8代王・睿宗(イェジョン)として即位します。

死因は様々な見立てがあるようですが、感染症のハンセン氏病だった可能性が高いといわれています。

現在は治療法が確立されているハンセン氏病ですが、当時はまだ効果的な治療法がなく、首陽大君(スヤンテグン)を苦しませていたと考えられます。

ハンセン氏病が決定的な死因かはわかりませんが、身体だけでなく心まで弱らせ、死の引き金になった可能性があると推察されます

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スヤンテグンの息子は2人とも早死に「天罰」と言われる

首陽大君(スヤンテグン)の息子は2人とも早死にしています。

睿宗(イェジョン)は病弱で、19歳という若さで病死しました。

在位期間はわずか1年2ヶ月でした。

睿宗(イェジョン)の兄の懿敬世子(ウィギョンセジャ)は、王位に就くことなく、弟と同じく病死しています。

懿敬世子(ウィギョンセジャ)も19歳という若さの早死にです。

こうしたことから、首陽大君(スヤンテグン)の息子は2人とも、天罰で早死にしたのではないかといわれています。

親の罪は子の直接的な罪ではありませんが、首陽大君(スヤンテグン)に殺された者たちの怨念が息子たちを呪ったのかもしれません。

首陽大君(スヤンテグン)の息子たちが早死したのは事実で、生前の行いからすれば天罰といわれても仕方がないでしょう

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スヤンテグンの次の王はインス大妃の息子

首陽大君(スヤンテグン)の次の王は、インス大妃の息子の成宗(ソンジョン)です。

父に懿敬世子(ウィギョンセジャ)、そして母にインス大妃を持つ人物です。

成宗(ソンジョン)は若い頃から聡明で、祖父の首陽大君(スヤンテグン)に似ていると言われながら育ちました。

父の懿敬世子(ウィギョンセジャ)は、成宗(ソンジョン)が生まれて間もなく病死しています。

その後、懿敬世子(ウィギョンセジャ)の弟の睿宗(イェジョン)が即位したものの、1年2ヶ月後に死去しました。

睿宗(イェジョン)の息子は4歳と幼かったため、祖母慈聖大妃の命で、インス大妃の息子の成宗(ソンジョン)が即位することになりました。

13歳という若さで王位に就きましたが、1469年から1494年まで約25年にわたり在位して国を導き、1495年に38歳で薨去しました。

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