このページでは韓国時代劇でよく出てくる派閥のノロン派とソロン派について解説します。
漢字で書くとそれぞれ
- ノロン(老論)
- ソロン(少論)
となります。
時代によって力を持つ派閥は違うため、トンイの時代を例として解説します。
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ノロン(老論)派は西人(ソイン)派から分裂した派閥だった
ノロン派は西人派から分裂した派閥です。
当時は西人派と南人派の派閥争いが起きていて、西人派は粛宗の二番目の王妃である仁顕王妃やトンイを支持し、南人派は禧嬪を支持していました。
この二つの派閥は粛宗の世継ぎ争いで激しく対立し、結果西人派が敗北となり、仁顕王妃は廃位、禧嬪は王妃となりました。
ですが、後に仁顕王妃が復位することで今度は南人派が敗北し、西人派に再び権力が戻りました。
西人派の分裂のきっかけとなったのは、南人派の支持していた禧嬪が賜薬により死罪になったことで、南人派の勢力も衰えていったからです。
これにより、勢力が一層強くなった西人派は分裂しました。
一つの派閥である西人派は性格がまったく異なるノロン派とソロン派の二つに分かれます。
それぞれの特徴は、強硬な手段を使うノロン派に対し、それとは逆に穏健な姿勢を見せるのがソロン派です。
ちなみにこのノロン派とソロン派の分裂が起きたのは粛宗の時代で、この時代が一番派閥の争いが激しかった時代でした。
粛宗も部下の派閥争いに頭の痛い所だったのではないでしょうか。
もともとは東西南北で派閥ができあがっていた
西人派と南人派があるように、もともとは東人派と北人派という派閥がありました。
まさに東西南北に派閥が分かれていたのですね。
第14代宣宗の時代に内部抗争によって、西人派と東人派に分裂したのが始まりです。
その後、さらに東人派が再び内部抗争によって南人派と北人派に分裂していきました。
昔から派閥争いが絶えなかったということですね。
王が変わってもノロン派とソロン派の争いは続いた
王が世代交代をしても、派閥争いが終わることはありませんでした。
粛宗が亡くなった後は禧嬪(チャン・オクチョン)の息子である景宗が王となりますが、景宗を支持していたのはソロン派です。
景宗をよく思っていなかったノロン派は、政治の権力を欲しいために王位争いまで口を出していました。
政治を自分たちの思うままにしたかったのはノロン派だったわけですね。
後にトンイの息子である延礽君(クム)を支持したのはノロン派です。
1724年に延礽君が英祖として即位したあとは、52年もの長い間王として君臨し続けましたが、陰で支え続けたのはノロン派でした。
昔も現代も権力があるところに派閥争いが絶えないという悲しい現実がありますね。
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